ネグレクト 育児放棄―真奈ちゃんはなぜ死んだか
2005年3月16日 日常
第11回 小学館ノンフィクション大賞受賞3歳の女児は段ボール箱でミイラのように餓死していた
2000年12月10日、愛知県名古屋市郊外のベッドタウンで、3歳になったばかりの女の子が20日近くもダンボールの中に入れられたまま、ほとんど食事も与えられずにミイラのような状態で亡くなった。両親はともに21歳、十代で親になった茶髪の夫婦だった。なぜ、両親は女の子を死に至らしめたのか、女の子はなぜ救い出されなかったのか。3年半を越える取材を通じてその深層に迫った衝撃の事件ルポルタージュ。
なんと述べていいのか。考えさせられた、ただ一言に尽きる。事件そのものを私は知らなかった。きっと著書を読まず事件のみを知ったら、加害者夫婦に嫌悪感を抱くであろう。しかし読み終えた今、私は夫婦を攻めることは出来ない。いや、確かに罪である。人殺しである。それに変わりはない。けれど言い切れるほどの殺人ではないのだ。
ネグレクトとは育児放棄を指す。子供に食事を満足に与えなかったり、病気や怪我を放置したり、長期間入浴させないなど、保護者としての責任を放棄する行為。そもそも児童虐待とは?暴力的虐待 ?精神的虐待 ?性的虐待 ?育児放棄的虐待 の4つに分類される。なかでもネグレクトは近年急増しているそうだ。
読む限り、最も強く感じることは、加害者である両親自身、被害者であると言う事だ。幼い頃虐待を受けた子は、自分の子に対し同じように虐待を犯す。これはよく言われている。被害者真奈の母自身、両親が離婚し、貧しい中で育った。親から温まる愛情を受けていない。驚く事に、留置所に入った加害者を彼ら両親は訪れることさえしていない。留置所に入った娘に嘘をつく(真奈の弟妹を施設に会いにいっていないのに、会いに言っていると嘘をつく)母親。私はこの母子関係を理解できない。娘が捕まったのだ、普通なら孤独な娘の理解者となり、一緒に償う気持ちで接していくものではないか。加害者夫婦の両親はその状況から逃げた。私には理解できない。
私が最も興味深かったことは、事件までの経緯だった。しかし読み進むにつれ、逮捕後の加害者(特に真奈母)の変化だ。事件前、子育てに無関心な夫に対し、真奈母は憤りを感じ自殺さえ感じるほど追いつめられていた。しかし逮捕後、手紙のやりとりを始めて夫から優しい言葉をかけられ、妻は「私もそう思う」と夫の考えに賛成するばかり、以前の怒りや憎しみは消え愛情100%になってしまっているのだ。
さらに真奈母手紙にこう記している。(逮捕当時、妊娠中だったので)「真奈のかわりと言うと悪いけど、このままこの子を中絶するのは真奈に失礼だと思いました。産んで幸せにしてあげナイとダメだと思いました。真奈は何もせず一人で色々な想いをせおい亡くなったのに、お腹の子まで・・・と思いました。それから真奈のコトを思うと産まなくちゃいけないと思いました。先のコト考えていずれ出産しても施設に入れるコトは分かっていたけれど『産まなくちゃいけナイ』と頭の中でぐるぐる回っていました。」「夫は出産にも立ち会いたいといっている。そして私達二人とも執行猶予をもらって家族と暮らしていきたいと思っているそうだ。私もできれば家族で暮らしたい」
著者は事件を冷静に見つめながら述べている。
しかしここでは「事実から少しずれている。この時点で子供が生まれる頃には社会に戻れるのではないかと考えていた。」と述べている。 娘を殺した罪の償い=それは産まれてくる子供と幸せに暮らす事で償うことだと言っている。それは決して罪を正面から向き合っているわけではないだろう。私はその考え方に驚いた。なんて楽観的な考えなのかと。人を殺した事実をこの時点で受け止められていない事を認識せざるを得ない。夫も同じだ。
あまりにも身勝手な考え方だ。まず事実ときちんと向き合うことが必要だと強く感じた。
また手紙には「大地(真奈弟)は何しているかな?友達たくさんできたかな?子より親の方が寂しいかな?」これは大地が健康で育って欲しいという願いよりも、離れて暮らす自分たちを親として認識してくれなくなるのではないかと言う恐れのほうがはるかに強い。現実感のない明るさが、私には何より印象的でならない。
「被告人両名をそれぞれ懲役七年に処する」
印象的だった言葉
事件直後、訪れた警察官が彼らに放った一言
「あんたら、これでも親か」
警察官にそこまで言わせた状況。ミイラ化した子供。想像を絶するものだ。
2000年12月10日、愛知県名古屋市郊外のベッドタウンで、3歳になったばかりの女の子が20日近くもダンボールの中に入れられたまま、ほとんど食事も与えられずにミイラのような状態で亡くなった。両親はともに21歳、十代で親になった茶髪の夫婦だった。なぜ、両親は女の子を死に至らしめたのか、女の子はなぜ救い出されなかったのか。3年半を越える取材を通じてその深層に迫った衝撃の事件ルポルタージュ。
なんと述べていいのか。考えさせられた、ただ一言に尽きる。事件そのものを私は知らなかった。きっと著書を読まず事件のみを知ったら、加害者夫婦に嫌悪感を抱くであろう。しかし読み終えた今、私は夫婦を攻めることは出来ない。いや、確かに罪である。人殺しである。それに変わりはない。けれど言い切れるほどの殺人ではないのだ。
ネグレクトとは育児放棄を指す。子供に食事を満足に与えなかったり、病気や怪我を放置したり、長期間入浴させないなど、保護者としての責任を放棄する行為。そもそも児童虐待とは?暴力的虐待 ?精神的虐待 ?性的虐待 ?育児放棄的虐待 の4つに分類される。なかでもネグレクトは近年急増しているそうだ。
読む限り、最も強く感じることは、加害者である両親自身、被害者であると言う事だ。幼い頃虐待を受けた子は、自分の子に対し同じように虐待を犯す。これはよく言われている。被害者真奈の母自身、両親が離婚し、貧しい中で育った。親から温まる愛情を受けていない。驚く事に、留置所に入った加害者を彼ら両親は訪れることさえしていない。留置所に入った娘に嘘をつく(真奈の弟妹を施設に会いにいっていないのに、会いに言っていると嘘をつく)母親。私はこの母子関係を理解できない。娘が捕まったのだ、普通なら孤独な娘の理解者となり、一緒に償う気持ちで接していくものではないか。加害者夫婦の両親はその状況から逃げた。私には理解できない。
私が最も興味深かったことは、事件までの経緯だった。しかし読み進むにつれ、逮捕後の加害者(特に真奈母)の変化だ。事件前、子育てに無関心な夫に対し、真奈母は憤りを感じ自殺さえ感じるほど追いつめられていた。しかし逮捕後、手紙のやりとりを始めて夫から優しい言葉をかけられ、妻は「私もそう思う」と夫の考えに賛成するばかり、以前の怒りや憎しみは消え愛情100%になってしまっているのだ。
さらに真奈母手紙にこう記している。(逮捕当時、妊娠中だったので)「真奈のかわりと言うと悪いけど、このままこの子を中絶するのは真奈に失礼だと思いました。産んで幸せにしてあげナイとダメだと思いました。真奈は何もせず一人で色々な想いをせおい亡くなったのに、お腹の子まで・・・と思いました。それから真奈のコトを思うと産まなくちゃいけないと思いました。先のコト考えていずれ出産しても施設に入れるコトは分かっていたけれど『産まなくちゃいけナイ』と頭の中でぐるぐる回っていました。」「夫は出産にも立ち会いたいといっている。そして私達二人とも執行猶予をもらって家族と暮らしていきたいと思っているそうだ。私もできれば家族で暮らしたい」
著者は事件を冷静に見つめながら述べている。
しかしここでは「事実から少しずれている。この時点で子供が生まれる頃には社会に戻れるのではないかと考えていた。」と述べている。 娘を殺した罪の償い=それは産まれてくる子供と幸せに暮らす事で償うことだと言っている。それは決して罪を正面から向き合っているわけではないだろう。私はその考え方に驚いた。なんて楽観的な考えなのかと。人を殺した事実をこの時点で受け止められていない事を認識せざるを得ない。夫も同じだ。
あまりにも身勝手な考え方だ。まず事実ときちんと向き合うことが必要だと強く感じた。
また手紙には「大地(真奈弟)は何しているかな?友達たくさんできたかな?子より親の方が寂しいかな?」これは大地が健康で育って欲しいという願いよりも、離れて暮らす自分たちを親として認識してくれなくなるのではないかと言う恐れのほうがはるかに強い。現実感のない明るさが、私には何より印象的でならない。
「被告人両名をそれぞれ懲役七年に処する」
印象的だった言葉
事件直後、訪れた警察官が彼らに放った一言
「あんたら、これでも親か」
警察官にそこまで言わせた状況。ミイラ化した子供。想像を絶するものだ。
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